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北海道の鉄道旅の記憶と記録を残しています。旭川から早朝の普通列車で北上する宗谷本線の車窓。2回目は音威子府(おといねっぷ)駅から終点の稚内へと向かうまでの風景です。

普通列車は音威子府駅で22分間の停車後に出発、次の筬島(おさしま)駅へ

三番線に青い面長のスーパー特急が入ってきて、十人足らずの客を乗せて走り去ると、ホームは物音一つしなくなった。稚内行の列車は、札幌行の特急が去ってしばらく経ってから動き出した。乗客は私を含めて三人。いずれも旭川から乗り続けている長距離客で、地元客はいない。夜行列車「利尻」が消えた今、旭川から稚内までもっとも早い時間帯に着くのは、特急ではなくこの普通列車である。

音威子府から北は、平地が極限にまで狭まる。二つの山地の谷底に天塩川が流れ、そこに沿って鉄道が縫うように走っていく。対岸は国道40号線である。七分ほど走るとわずかな平地が開け、筬島(おさしま)という駅に着く。かつて貨物列車に連結していた車掌車が、雪のなかにポツリと捨てられたように置かれている。北海道でよく見る転用駅舎である。

付近には生活の気配を感じないが、近所の廃小学校は木彫家の砂澤(すなざわ)ビッキが生前にアトリエを構えた所。現在は作品を展示するミュージアムになっているという。音威子府駅前にあったトーテムポールの作者でもある。

列車は天塩川に沿って走る

線路は天塩川と一心同体のごとく、ぴったりくっ付いて敷かれている。川が蛇行すれば列車も右に左に目まぐるしく曲がる。左は大河、右は断崖。自然の言われるがままに北上するしかない。なのに、川の流れは相変わらず悠然としたままで、川面には泡沫の一つさえ見えない。ディーゼルカーが右往左往するのを、面白がって眺めているかのようである。

天塩中川で老夫婦が乗ってきて、全乗客は五人になった

中川の細長い街を抜けると、列車は再び天塩川に揺さぶられ始めるが、谷が若干開けてきたので、音威子府村と中川町のサミットのような激しい蛇行はなくなった。北見・天塩の両山地を覆っていた灰色の雲が少しづつ抜け、窓の外に青空が見え始める。鉛色の水面にも、緑と青が入り混じってきた。
「おい、山だ」
老夫婦の夫が言う。女性週刊誌を熟読中の妻より早く、私が反応した。単調な黒い稜線に一つ、三角形の真っ白な美形の山が飛び出している。
「あれ、利尻富士?」
本から目を外した老妻が声を上げた。

雄信内(おのっぷない)という駅を過ぎ、幌延駅に近づく

天塩山地が尽きつつあり、丘陵のようである。次第に左側に原野が広がってきた。列車が曲がることもなくなり、スピードものってきた。ここから幌延まで一気に三駅を通過する。牧草地の向こうには、再び利尻富士が姿を現した。先ほど、中川の外れで見た時より、大きくなっている。赤い牛舎とタワーサイロの向こうに、ゴツゴツした白い山肌が見える。サロベツの風景にしっかり溶け込んでいる。いつも隠れているこの山は、こんなに美しかったのかと思う。

豊富~抜海間の風景

サロベツ観光の中心駅である豊富(とよとみ)を一〇時四一分に出た稚内行は、寥(りょう)とした原野の中を北上していく。雪が薄く、枯れ木や熊笹が地表に顔を出す。厳冬の一歩手前の平原は寂しい。

兜沼(かぶとぬま)、勇知と過ぎると、列車は原野から離れ、日本海へ向かうなだらかな丘陵の中に入った。抜けた所が抜海(ばっかい)駅。反対列車が来るまで、四分の時間があった。

一八年前の夏、私は初めて抜海で下車した。牛が草を食む駅前から、原生花園に向かって一直線の道が伸び、陽炎の先には吸い込まれそうな蒼い海がある。観光地ではない最果ての風景にとりつかれ、季節ごとに訪れた。北海道で最も好きな駅だった。

抜海から終点の稚内へ

交換を終えて抜海を出た列車は、宗谷本線最後の丘を上っていく。自然のままに水が流れるクトネベツ川を越え、枯れた針葉樹林の中を三分ほど走ると、視界が開けた。エメラルドグリーンの日本海に置物のような利尻岳が浮かぶ。絵葉書のごとく出来過ぎている。「利尻富士」と書かれた塔婆めいた案内板が突き刺さり、まるで箱庭の世界である。

「ツギハ、ミナミワッカナイ、オデグチハミギガワ、ゼンブノドアーガヒラキマス、ウンチンセイリケンハ、エキカカリインニオワタシクダサイ」
これまで散々聴かされた自動放送の女性の声が流れ、列車は南稚内へ着く。残る乗客は三人。市街地を四分走った列車は、一一時三〇分に終点の稚内に到着した。前後二つのドアが開いて、旭川から共に五時間半乗り続けた二人の男とともに降りた。
東京から一七〇〇キロ超、三日間の度は終わった。

(宗谷本線編 おわり)

宗谷本線(その1)旭川→名寄→音威子府間の風景

(出典:2009年「週末鉄道紀行」)
北海道の鉄道旅の記憶と記録を残しています。宗谷本線の1回目は旭川駅から稚内へと向かう朝の普通列車からの風景です。

旭川駅から早朝6時5分発、稚内行の普通列車に乗車、塩狩峠へ

永山までの旭川市内駅で一五人ほどの高校生が乗ってきて、車内はローカル線の朝列車らしく混雑してきた。これから、比布(ぴっぷ)、和寒(わっさむ)、剣淵、士別と各市町に高校がある。

短いホームがあるだけの北永山、南比布の二駅を、なかったかのように通過した普通列車は、六時二八分に比布に到着。三人降りて七人乗車。窓の外は濃い青色になって、うっすら景色が見えてくる。上川盆地の北端が近付き、行く手には丘のような山が迫ってきた。アイヌ語で「下る道」という意の蘭留(らんる)を過ぎ、いよいよ列車は塩狩峠にかかる。

列車は蘭留山を周り込むように静かに峠へ入り込んでいく。深い雪が車輪の音を吸い取り、標高三〇〇メートルに満たない峠を静かに越えている。頂上の塩狩駅には六時四七分に着いた。対向列車は沿線市町から旭川への一番列車。ディーゼルカーを四両も連ねている。

士別駅から名寄駅へ

北限に近づきつつある雪の水田地帯を一直線に走り、剣淵川を渡って士別に到着。人口二万二〇〇〇人超、名寄盆地の中心にある旭川以来の大きな街だ。高校も二つある。かなりの学生が降りて、立っている客は少なくなってきた。

士別を七時一七分に出た列車は、平野を北に突き進んでいく。真っ白な平原に青い空から朝陽が照らし、天塩(てしお)の山並みまで透き通って見える。晴天の朝の雪景色は、その中に飛び込んでしまいたくなるほど気持ちが良い。

まとまった集落のある多寄(たよろ)と、かつては五千人規模の自治体だった風連(ふうれん)で、同じ制服の高校生を拾った稚内行の普通列車は、七時四六分に名寄へ着いた。ぞろぞろと高校生が降りていく。雪のホームが一瞬黒くなる。

名寄駅から美深駅へ

名寄で大半の高校生を降ろして総重量が減った稚内行は、次第に細くなりつつある盆地を軽やかに走っていく。左の窓には、天塩山の白いなだらかな稜線が青い空に映えている。天塩川も近づいてきた。客が少なくなるほど、景色がよくなってくる。

一日一人の乗降があるのかどうかも疑わしい、バス停留所風の小屋と短いホームだけの駅が続き、八時一六分、地方銀行支店のような駅舎の美深(びふか)に着いた。高校生全員が下車。宗谷本線下り、旭川方面からの高校通学の北限は美深高校だったようだ。これより先で、この列車が賑わうことはないのだろう。

美深から音威子府へ

天塩山地と北見山脈が両側から迫り、平野が狭まってきた。次の初野駅を過ぎると、左手には大河が寄り添ってくる。この先は、宗谷本線、国道40号線、天塩川の三つがわずかな空間を分け合って、互いに離合を繰り返しながら北上していく。

ほとんど乗降のない美深町の外れの集落駅を過ぎ、豊清水の先で音威子府村に入った。細い枯れた木々の下には、どんよりと流れのない水面が見える。夏は鮮やかな緑色なのに、今は鉛のようである。駅名の割には、一両分の木造ホームだけの天塩川温泉駅に停車。家も人も見えない。次の小集落、咲来(さっくる)で乗客一人を乗せた列車は八時五二分に音威子府までたどり着いた。

宗谷本線(その2)音威子府→稚内間の風景

函館本線(その3)・小樽→札幌→岩見沢→旭川間の風景

(出典:2009年「週末鉄道紀行」)
北海道の鉄道旅の記憶と記録を残しています。函館本線の3回目は小樽から札幌を経由し、岩見沢から旭川へ向かうまでの風景です。

小樽から快速「エアポート」に乗車、小樽築港を過ぎる

小樽港南端の平磯岬を若竹トンネルで超えると、日本海の波打ち際に出た。海まで十メートルも離れていない場所を走っている。目線の下に低い防波堤があるだけで、高波が来ると、列車ごとさらわれてしまいそうだ。吹雪で空と海原が溶けてしまって、遠くは見えない。海岸は砕けた波の水泡が覆い、流氷に埋め尽くされたかのようである。

岩見沢から旭川行の普通列車に乗る

一六時五七分、旭川行の普通列車は、ガシャという鈍い音を立て、夜中のように暗い岩見沢を出発。先ほどの最新特急電車と対照的な国鉄時代の古参電車は、室内にはミシミシという響きが伝わってきて、走り出してもなかなか加速していかない。機関車が牽(ひ)く客車列車に乗っているようで、昔を思い出し、にやりと微笑んでしまう。

普通列車は旭川までの途中一四駅に停車し、一時間四〇分で走る。長距離停車が少ないので、他便に比べると所要時間は短い部類である。

列車は空知平野を坦々と北へ向かって走っている。まだ夕方五時を過ぎたばかりなのに、窓にはぽつぽつと人家の灯りが遠くに映るくらいで、寂しい風景が続く。昼間なら、一面の白い原野が広がって、北海道らしさが感じられる区間である。黄色い光を浴びたホームに停まるごとに、一人二人と降りていき、車内も空いてきた。

深川駅から旭川駅へ

北空知平野がまもなく尽きる。深川市街外れの納内(おさむない)を出た赤い電車は、空知と上川を隔てる常盤山の長いトンネルに入った。隧道(ずいどう)の外は神居古潭(かむいこたん)だ。アイヌ語で神の居所を意味する渓谷で、昔はここに沿って列車が走っていた。今は大半が暗闇の中を通るけれど、私はこの区間が函館本線で最後となる五つ目のハイライトだと思っている。

(「函館本線」編おわり)

宗谷本線(その1)旭川→名寄→音威子府間の風景

函館本線(その2)・長万部→小樽間(山線)の風景

(出典:2009年「週末鉄道紀行」)
北海道の鉄道旅の記憶と記録を残しています。函館本線の2回目は長万部→小樽間のいわゆる「山線」の風景です。

長万部駅から小樽行の普通列車で二股駅へ

新型気動車は、雪山に挑む登山者のように、吹雪の中を西北の山脈に向かって一直線に突き進んでいる。人の気配が消えていき、辺りは真っ白の落葉松と、雪の間から首を出す熊笹だけになった。

八分間走り続けて最初の駅の二股に着く。貨車に窓とドアを取り付けて駅舎に転用されている。駅前には雪に埋もれた数軒の民家が見えるが、人の姿はなく、物音一つしない。

件の道内二人組のうち一人から、ここは温泉あるんだよなあ、という声が聞こえた。「ありゃ料金が高すぎる、経営者が変わって悪くなったんでしょ」ともう片方。二股駅の奥地にある温泉地のことらしい。かつて消費者金融会社が買収したと聞いたことがある。

こんな山奥の温泉でも買い手があるということは、二股は案外すごい場所かもしれない。私は想像を膨らませた。

蕨岱駅から黒松内駅へ

長万部町の果てにある蕨岱(わらびたい)という集落の形跡が見えない駅を過ぎて、列車は黒松内(くろまつない)に着いた。ホームには三人の乗客がいて、隣の道内二人組を含めた五人が下車。人口三千人超の町だが、付近に人の生活の気配を感じるだけで、とてつもなく大きな駅に思えた。

黒松内駅を過ぎて

黒松内を出ると、これまで日本海へ向かって進んでいた函館本線が、山に挑むことが宿命であるかのように突如左へ急カーブを切った。この先には八百、千メートル級の山々と急勾配の峠が待ち構えている。

倶知安駅から倶知安峠、小沢駅

倶知安を出ると、早速峠が待ち構える。SLの撮影名所だった倶知安峠である。蒸気機関車やディーゼル機関車が二機がかりで苦労した難所を、一両だけの新型ディーゼルカーは、それほどエンジン音を上げることもなく超えていく。

一二分走って小沢(こざわ)に到着。岩内線の分岐駅だったが、岩内方面へのレールは、その存在すらなかったかのようにはぎ取られ、崩れかけたホームにはロープが張られている。三角屋根の小さな駅舎は道内どこにでもある人家のようで、駅としての存在感がまるでない。かつて岩内行の急行「らいでん」や「ニセコ」の全列車が停まっていたとは思えない。山線の衰退を象徴するかのような駅である。

余市駅→蘭島駅→塩谷駅→小樽駅へ

余市は人口二万二〇〇〇人弱、沿線一の規模を誇る街で、積丹(しゃこたん)半島への入口でもある。小さなディーゼルカーの車内は、通路までびっしり人で埋まった。日曜日のためか観光客も目立つ。このキハ一五〇型という一九九三年製ディーゼルカーの最大定員は一一五名である。終点に近づいて、ようやく百人以上が乗ってきた。

海水浴場の最寄駅として、二〇年ほど前までは臨時の快速列車「らんしま号」が始発着していた蘭島を出た列車は、最後の勾配を上っていく。満員のためかこれまでよりは幾分重そうに感じるスピードである。

隧道(ずいどう)に入ったり出たりしながら、四つ目のトンネルを抜けると、日本海と雪を浴びた塩谷の集落が眼下に現れた。短い夏の間は華やかな海水浴場が、白い波に飲み込まれてしまっている。

函館本線(その3)・小樽→札幌→岩見沢→旭川間の風景

函館本線(その1)・函館→長万部間の風景

(出典:2009年「週末鉄道紀行」)
過去に自分の書いたことをすっかり忘れてしまうことがあります。備忘録的に北海道の鉄道旅の記憶と記録を残してみます。北海道の鉄道旅への惜別的な思いもあります。函館本線の1回目は函館駅→長万部駅間の風景です。

函館本線・函館駅発の長万部行・普通列車にて

青森は日本の袋小路だが、函館は大陸への出発点だ。稚内でこの国は途切れるが、その先にはサハリンがあり、短い海峡を越えればユーラシア大陸につながっている。稚内~サハリン航路がもっと便利だったなら、鉄道と船だけの壮大な旅を続けることも可能である。たった一両の寂しい気動車のなかであっても、そんな夢を抱けるのは、函館しかないと思う。

函館本線・仁山駅を過ぎたあたり

今日は雪が少ないためか、この古いディーゼルカーもそれほど苦しむことなく走っている。登りきったところで一瞬視界が開け、眼下に海まで続く真っ平な函館の街並みが広がった。函館山がオアフ島のダイヤモンドヘッドのようだった。

函館本線・砂原線(銚子口駅)

日曜朝とはいえ、車内も沿線もあまりに閑散としている。駅には人の気配が微塵も感じられない。近所に温泉があるという銚子口駅でも乗降はゼロ。駅前の家が倒壊していて、廃村のような雰囲気すら漂わせている。

列車は駒ヶ岳の裾野の高い場所を走っている。眼下になだらかな丘陵が拓け、その先には噴火湾も見える。初めて北海道に来た時、私は遠くに蒼い海が広がるこの区間の車窓に魅了され、熱烈な砂原線のファンになったのだが、今日の枯れた木々の丘と灰色がかった海は、ただ寒々しい。

函館本線・森駅を過ぎたあたり

列車は、山崖に押し出された細い街道を走っていく。右側には手が届きそうなほど近くに噴火湾の水面が迫ってきた。青とグレーが混ざり合った寒そうな海に、氷雪が落ちては吸い込まれていく。函館本線第二のハイライトが始まった。

右の窓には内浦の穏やかな海景色が続いている。人を寄せ付けない冬の日本海の激しさに比べると、迫力には欠けるが、海がじわりじわりと迫ってきて、いつの間にか懐に取り込まれてしまう風景である。

函館本線・八雲駅より先

鮭の遡上で知られる遊楽部(ゆうらっぷ)川を越えた列車は、再度海岸に向かって進んでいる。鷲ノ巣、山崎と、誰も乗らないけれど規則だから仕方がなく停まってますよ、というような駅を過ぎる。右の窓には再び内浦湾が現われ、今度は砂浜越しに眺める形になる。左手の競走馬を育む牧草地は、冬はただの白い地面だ。

夏なら、窓を開けて汐と草の香のする風を浴びたくなるが、今は海岸にまだら模様に積もった雪が一層寂しく、灰色の雲に飲み込まれてしまいそうで怖い。

黒岩の手前で内陸に入り、集落が少しは増えてきても、乗降はない。かつて瀬棚線が分岐していた国縫(くんぬい)でさえも、駅には誰一人として人間の姿はなかった。ディーゼルカーは珍客三人だけを乗せて、文句も言わず時刻表通りに走っている。

つづき「函館本線(その2)・長万部→小樽間(山線)の風景」


(出典:2009年「週末鉄道紀行」)
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 再開4日目となりました。
 昨夜は2009年6月にこのWeblogを始めてから3年余でちょうど150回目の更新だったのですが、江差線の一部廃止問題を書き始めて熱くなってしまい、つい失念してしまいました。

 昨日までの150回のうち何を書いてきたのか、内容に関連する「タグクラウド」というもので集計してみますと、「JR東日本(クリックしたら下にスクロールしてみてください)」に関する内容が21回でトップとなりました。

 社会人野球の話題から株主総会レポ、東日本大震災、ダイヤ改正に関する皮肉や乗客が減ったり、LCC(ローコストキャリア)が台頭することによる危機感まで、若干関連の薄い内容もありますが、日本一(世界一?)の鉄道会社であり、我が地元であるJR東日本に対する愛憎が満ち溢れているようでありました。

 これから、このWeblogがどれだけ続くのかは分かりませんが、150回書き続けて一つだけ言いたいのは、JR東日本が日本の鉄道界の模範となるべきであり、そして、JR東海と協調(懐柔してもいい)して巨大連合を作り、飛行機などの他のライバル交通機関に対抗せよ!ということです。まずは一度くらい共同で企画きっぷでも作ってみろ!と思います。

 あの仲の良くなかった関西の鉄道各社(JR西日本含む)でさえ一部で協調して観光客を送客し続ける時代です。鉄道界全体が苦境に立たされるなかで、JR東日本と東海が反目し続けている理由などないはずですし、我々利用者に何のメリットもありません。

 JR東海の方が株価が高くて、規模はJR東日本の方が大きい、というアンバランスが良くないのかもしれません。
 もしかしたら両社のことだから、裏では相互不可侵なんて風潮があるのか、とも思ったり。

 そうだとしたら、利用者のためにはまったくならないので、東海道新幹線の熱海~東京間はJR東日本に、軽井沢~長野間など新幹線を含めた長野県内全路線をJR東海にそれぞれ割譲し、2社がどうしても協調しなければ運営できないようにすべきだ!
 などと、マニアの若干妄言めいたことを吐いたところで、151回目の更新を終わります......。

 明日からは少しでも役に立つことを書くよう頑張ります!

※写真の2009年に廃止された寝台特急「富士」(東京~大分)のように、JR東日本、東海、西日本、九州という4社に渡るような全国ネットワークJRならではの直通列車を復活させるべきだ!(今日は「べきだ!」が多いですね......) 
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 再開2日目になりました。
 JR北海道が再来月(10月)27日に独自のダイヤ改正を行うことが先日発表されました。(詳細はこちら[PDF]

 札幌から石狩当別を通り新十津川まで80km弱を結んでいる札沼(さっしょう)線のうち、途中駅の北海道医療大学駅まで「学園都市線」と称している札幌近郊の約30km区間を電化。これに伴う改正で、10月からは札幌通勤圏の電車が一体化して運行されることになるそうです。

 今までディーゼルカー(気動車)で運転していた札沼線の一部が電化によって高速化・増発されて「便利」になる一方、古くから電化している室蘭本線の一部区間(室蘭~苫小牧)では、逆に電車からディーゼルカー化して「不便」にするという変更も予定されています。

 室蘭本線は、室蘭~東室蘭(室蘭)~苫小牧(正確には次の沼ノ端駅)間で電化され、特急電車の「すずらん」や普通列車は主に国鉄時代の赤い電車(右上写真)で走っていたのですが、10月の改正後は室蘭と苫小牧間を結ぶ普通「電車」をディーゼルカーによるワンマン運転の普通「列車」に変えるというのです。
 「電車」の高速性を捨てて、わざわざ速度が遅い「ディーゼルカー」にグレードダウンする格好となります。

 ここを読んでいるような鉄道に詳しい方々は「あ、なるほど」と事情が分かるとは思いますが、これはなかなか見られない不思議な「改正」です。

 一言で言うと、「客がいないから電車を動かすのがもったいない!」ということが理由です。
 JR北海道の「電車」は最短で3両編成にしかならないのですが、「ディーゼルカー」にすれば1両だけでも運転することができますし、車掌を載せないワンマン運転も可能です。運行にかかる無駄が省けるというわけです。
 もう一つは、短編成やワンマン化に対応した新しい電車を造るお金がないという事情もあるようです。

 電化しているのに、電車ではなくディーゼルカーが走っている場所は全国に幾つかあります。
 有名なところでは羽越本線の村上~酒田間で、特急は「電車」ですが、普通列車はすべてディーゼルカーで運転されています。江差線の五稜郭~木古内間も「津軽海峡線」として電化されてますが、普通列車はディーゼルカーしかありません。

p120812p2.jpg もう一つは、九州新幹線の開業で第三セクター化されてしまった旧鹿児島本線の「肥薩おれんじ鉄道」で、貨物列車を電気機関車で高速運転するために電化設備自体は残していますが、第三セクター化と同時に、列車はすべてがディーゼルカーに変わりました。

 これらに共通しているのは、「交流」で電化されている区間だということです。羽越本線は途中まで直流区間も交じっています。

 日本の主要路線の多くは「直流」での電化ですが、直流型の電車に比べ、交流型電車を造るためには余分なコストがかかるといわれています。
 交直両用の電車だとさらにコスト増となるために、羽越本線では直流と交流が交わる区間だけ(この区間の客が少ないという理由もありそうですが)、ずっとディーゼルカーのままで放置されています。

 日本の鉄道界に君臨するJR東日本でさえそんな状態ですから、JR北海道が車両を新造するのはかなり困難なことといえます。旧型の赤い国鉄型電車をまだ使っているくらいですから、その苦しさが分かるかと思います。

 電車化と非電車化が同時に行われるという稀有なJR北海道のダイヤ改正。この情報を見ながら、今後は他の「電化ローカル路線」で同じようなことが起きるかもしれない、とふと思いました。

 北海道の岩見沢~旭川間なんかも、今の赤い普通電車が老朽化で廃車となったとき、札幌圏で走っているような緑色の新しい電車を客が少ない区間に入れるのか否か。
 時速130kmで特急電車がビュンビュン行き交うなか、1~2両のディーゼル普通列車が架線の下をのんびり走っている様子が少し目に浮かんできたりしました。


※写真右上は10月のダイヤ改正で室蘭本線から撤退する国鉄型の711系電車。登場から30~40年経つので廃止は近いとみられる。
※左下は「肥薩おれんじ鉄道」のディーゼルカー、全線で電化しているが、電車は1両もない。

※江差線廃止に関する話題は別に翌日書きました
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 先週木曜日深夜に50回目を書いて以来、一週間以上も休んでしまいました。
 一日くらいなら休んでもいい、と思っていたら、ついずるずると連敗街道を走ってしまいました......。今日からまた頑張ります!

 最近「鉄分補給」なる言葉を時折聞くのですが、これは実際に栄養価の「鉄分」を摂取する言葉から転用したもので、鉄道趣味にかかわることに接して心が満たされた、とかいう意味で用いられているようです。
 今日、ここの更新を再開するための力をもらうために、私も昨夜「鉄分補給」なるものをしてみました。
 といっても、バーチャルの世界です。
 米google社が運営する「YouTube(ユーチューブ)」という動画投稿サイトで、鉄道に関する色んな映像(動画)を探してみたのです。

 いざ、実行してみると、古い時代の貴重な映像が多々出て来て実に面白い!特に一般の方が撮影して公開したビデオ映像が非常に素晴らしいのです。
 ほとんどが5~10分の映像なのですが、愉快な映画を1本見たときのような充実感に浸れました。

 あまりに感銘したので、誰かに話したくてたまらず、勝手にその一部をここで紹介してみます。

※なお、公開した本人の方が掲載を中止したり、映像の著作権者が申し立てたりして消えてしまうこともありますので、その際はあきらめてください......。また、音が出ますので、深夜帯や職場ではご注意のほどを...。

(2008/11/21 masagaki036さん公開、6分53秒)

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 山陰本線の福知山~城崎間が電化される直前、1986年秋に個人の方が撮った映像です。「旅」と題するように、ホームでの乗降風景から行き違いでの停車、車内、車窓とさまざまな視点から撮っているのが素晴らしく感じます。
 2分00秒頃から始まるドアを開け放したままで走る様子や車内の白熱灯、ガラガラの車内、停車時にガクっと揺れる客車。そして、4分15秒には「タタタタタタタン...」と懐かしい響きのオルゴールが鳴って車内放送。ラストの和田山駅では、大量に放置された青い旧型客車。窓が広告媒体に使われている風景など、国鉄末期の寂しさまでがちゃんと映されていて、私にとっては「たまらない映像」です。何度も見てしまいました。

 このほか、「なつかしの国鉄シリーズ キハ80系特急オホーツク 1」(2012/1/15 chinbeyさん公開、5分23秒)も非常に興味深い映像で、1986年当時の「特急オホーツク」の車内を1号車から順に歩きながら映しています。リクライニングもしない2人掛けシート(当時はこれでも憧れの存在だった)や、入った瞬間に「いらっしゃいませ!」と迎えられる食堂車など、実に懐かしい......。

(2012/2/19 HANSHINdensyaさん公開、1分22秒)

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 昭和35年、高崎を6時5分に出発する上野行の普通列車の悲惨な混雑ぶりを撮影したTV映像(おそらくNHK?)。旧型客車のドアにしがみついたり、機関車のデッキ部分に人があふれていたり、「痛勤」どころではなく、まさに「手すりに命を託しての数十分」(ナレーション)の通勤風景が記録されています。
 既に当時、高崎線は電化されているので、電線の支柱があったり、反対の線路を高速で電車が通過していったり、一つ間違えれば命を落としかねない状況です。
 この頃の時刻表によると、高崎駅から上野方面へ6時台はこの724列車(休日運休)も含め、客車列車が2本、電車が2本も運転されているのですが、それだけでは到底間に合わなかったようです。私のような年代には未知の驚愕映像でした。

 実は高崎線では、この映像が撮影された13年後の1973(昭和48)年、労働組合の順法闘争に端を発して列車本数の削減が強行され、ついに乗客暴動事件(上尾事件=映像はこちら)まで起きています。長い間、国鉄が客のほうを向いていなかったために、こうした無茶な通勤列車を生んでいたのか、とも見えてきます。

■名画3:国鉄だって頑張っていた!とも感じさせる懐かしいCM

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 先ほど、国鉄の「負」の部分を書いたので、最後は少し「にやり」とするような懐かしい映像も交じえて終わりたいと思います。

 「国鉄のCM(※国労)」(2011/3/20 kokutetu113keiさん公開、15秒)は国労が独自に作ったCM。当時、国鉄当局とは別にこんなCMが作れるほど力があったのだな、と驚きます。国鉄崩壊を予想させる少し悲しげな雰囲気が印象的です。

 一方、「国鉄&JR各社のCM詰め合わせ」(2011/3/20 kokutetu113keiさん公開、7分26秒)は、1970年代の「ディスカバージャパン」からJR発足、レールが結ぶ一本列島のJRダイヤ改正までのCM20数本をまとめた貴重な映像集です。ああ、こんなのあったよなあ、と思わず見入る方は私と似た年代か上の世代に違いありません。

 ということで、また面白い映像があったらこちらでご紹介していきます!

※左上の写真は国鉄型(色)ということで載せてみたイメージ写真です。
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 今夜で48回目です。
 昨日、ビジネス雑誌の鉄道特集について書きましたが、現在売っている最新の『ダイヤモンド』8月4日号の特集「JR vs 私鉄~王者JRを猛追する私鉄」内で、鉄道警察隊に関する取材記事が見開きで掲載されています。

 これを読んで驚いたのですが、警視庁の鉄道警察隊には前身である「鉄道公安官」の出身者が今やわずか1人しかいないというのです。
 鉄道公安官は、国鉄内の警察組織として戦後すぐに発足。スリや置き引き、痴漢、暴力事件といった車内や駅での事件を防ぐうえでは欠かせない存在でしたが、1987年の国鉄崩壊とともに、鉄道公安官の制度自体も解体され、鉄道警察隊が担うことになりました。

 民営化前は全国に約2900人もいた鉄道公安官ですが、解体時に警視庁や各道府県警に移籍したり、JR社員になったりしてばらばらになっています。全国一の規模を誇る警視庁でさえ、100名しか鉄道警察隊としては採用しなかったようですから、今は1人だけしかいないのも不思議ではないのかもしれません。

 「赤帽」などとともに、戦後の鉄道を脇から支えた鉄道公安官という名称は、もはや鉄道の現場から消えようとしているようです。JRの経営陣や幹部が今も国鉄出身者で占められているのに、同じ国鉄出身者でも鉄道公安官の世界は、組織はもちろん、出身者群も名称さえも跡形もなく消されようとしています。

 こうなったら、せめてフィクションの世界だけでもその名残を味わいたい!と思うのですが、テレビ朝日系の人気ドラマ『鉄道公安官』(1979~1980年)は、DVD化が熱望されているにも関わらず一向に実現されません。
 30年も前のドラマなのに、動画共有サイトに誰かが主題歌をアップしただけで、テレビ局が削除に勤しんでいます。同時代に同じテレビ局で放映された刑事ドラマの『西部警察』は"野放し"なのに、なぜか鉄道公安官のドラマは徹底的に消され続けているのです。

 著作権の問題なのか、見えない圧力なのか、自主規制なのか、背景になにがあるのかは分かりませんが、「鉄道公安官」という名がこのまま忘れ去られていくような流れになっていることは確かで、非常に寂しい気がしてなりません。

※写真は1979~80年に放送されたテレビ朝日系のドラマ『鉄道公安官』(石立鉄男ら主演)のオープニング画面。主題歌もエンディングテーマの映像も国鉄のカッコよく、旅情あふれる鉄道風景が多々出てきてたまらない気分になります。かつて動画共有サイト「YouTube」にアップされていた動画からキャプチャしたものですが、あっという間に削除されてしまいました......。
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 45回目となりました。
 昨日(正確には一昨日)の26日(木)15時に時事通信が配信したニュースによると、JR西日本の真鍋精志社長は「26日までに」同通信社のインタビューに応じ、「需要が大幅に減少している路線について『将来的に、鉄道の代わりにバス運行するのも選択肢』と述べた」ということです。

 これ以外にも同社長は、日本経済新聞や産経新聞、神戸新聞、北陸新聞などの個別(単独)インタビューに応じているとみられますが、「鉄道の代わりにバス運行するのも選択肢」という発言は時事通信社にしか行っていないようです。

 たとえば、日経には「山陽・九州新幹線の直通列車の増発を検討する考え」を示しており、産経には「鉄道会社間でパイの奪い合いをしている場合ではない。長期的な視野で互いのネットワークを上手に使うのが重要」と述べて私鉄との連携に意欲的な姿勢を見せたといい、北陸新聞には北陸新幹線について「次善はフリーゲージ」などと述べたとされています。
 これは、ネット上で発信されている情報に限って調べたものなので、もしかしたら他の新聞にも個別インタビューに答えているのかもしれません(多分、横並びに応じているはずです)。

 「鉄道代替バス」については、時事以外が報じていない点が気にかかりますし、26日「までに」(この「までに」というのがクセ者。一体いつしたんだ?)インタビューしたにもかかわらず、今日(27日)の第1四半期決算の発表に合わせるかのようにぽっと出てきた点など、発言の背景や同社の広報戦略(「縛り」とか言って、○日まで公表しないことを約束する見返りに単独インタビューさせてもらう。当然媒体によっても発言内容を変える)上の狙いを探る必要もあります(時事以外の他媒体も同様)。

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 もしかしたら時事の優秀な質問者がこの答えを引き出したのかもしれませんし、たまたま社長が思いつきで言ったのかもしれないにせよ、記事の内容が「ねつ造」ではないことを信じれば、トップも含めこうした考えがJR西日本にあるのは事実なようです。
 万が一「ねつ造」なら反論コメントを出すはずなのに出していないところを見ると、発言をそのまま受け取ってもよい、と判断できます。

※ここまでくどくど述べたのは、JR西日本という上場企業なりの情報公開戦略があるということと、それに報道各社がそのまま乗っかっている可能性があるという点を知っておかなければならないと思ったからです。要は、先日書いた「メディアリテラシー」でいう「100%信用したらダメですよ、背景を読み解きましょう」という意図です。

 メディアリテラシーの問題はともかく、今日ここで書きたかったのは、やはりJR西日本の社長が赤字ローカル線のバス転換を否定しなかったという発言にあります。

 昔、国鉄時代にはローカル線の廃止を「廃止」と言わずに「バス転換」と称していましたが、バス化するということは、鉄道を廃止するということです。バス転換などともっともらしいことを言ってはいても、それが意味するところは「鉄道廃止」なのです。

 具体的な線区を挙げていないので、どこを指して言っているのかは分かりませんが、時事通信のインタビュー記事によれば、「例えば山越えの路線で、設備の老朽化に対してコストをかけるより、鉄道をなくして(需要のある)エリアごとにバス運行する方が利便性が高まるのではないか」と語ったとされています。

 たとえば、木次(きすき)線の備後落合(広島県)~出雲横田(島根県)間や、芸備線の備後落合(広島県)~東城間(岡山に近い広島県の県境駅)のように、1日3往復という究極まで列車本数を減らして維持している中国山地の県境越え区間などをイメージすると分かりやすいかもしれません。
 誰も乗らないんだから、もう、鉄道をやめさせてくれよ、という叫びともとれます。数日前に書きましたが、山陰本線でさえ特急列車が2両で走っていてもガラガラですから、ローカル線の乗客数は悲惨な状態になっているのだろうと推察されます。

 ただ、4~6月(第1四半期)の売上高が前年より上がっていて、163億円の利益を計上しているにも関わらず、こういう観測気球的な発言(方針?)をぶちあげ、地方都市の反応を見る(だからこそ「時事」にしたんだろうと思います。共同通信だったら、即地方紙の記事になって騒ぎになる)という手法に、実に嫌なやり方だな、と感じました。

 なぜ地方の街を不安にさせるような発言が定期的(2010年にも似た趣旨の発言をしている)にトップの口から出てくるのでしょうか。
 それだけ経営が苦しいのか、それともJR西日本お得意の公的支援を引き出す戦略なのか、何にしても愉快ではないニュースでした。

※写真上はJR西日本の某ローカル線、小さなレールバスが1両で走っています。下は時事通信社が7月26日(木)15:01に配信した記事(http://www.jiji.com/jc/c?g=ind_30&k=2012072600560より)。クリックすると拡大します。