宗谷本線(その2)音威子府→稚内間の風景

北海道の鉄道旅の記憶と記録を残しています。旭川から早朝の普通列車で北上する宗谷本線の車窓。2回目は音威子府(おといねっぷ)駅から終点の稚内へと向かうまでの風景です。

普通列車は音威子府駅で22分間の停車後に出発、次の筬島(おさしま)駅へ

三番線に青い面長のスーパー特急が入ってきて、十人足らずの客を乗せて走り去ると、ホームは物音一つしなくなった。稚内行の列車は、札幌行の特急が去ってしばらく経ってから動き出した。乗客は私を含めて三人。いずれも旭川から乗り続けている長距離客で、地元客はいない。夜行列車「利尻」が消えた今、旭川から稚内までもっとも早い時間帯に着くのは、特急ではなくこの普通列車である。

音威子府から北は、平地が極限にまで狭まる。二つの山地の谷底に天塩川が流れ、そこに沿って鉄道が縫うように走っていく。対岸は国道40号線である。七分ほど走るとわずかな平地が開け、筬島(おさしま)という駅に着く。かつて貨物列車に連結していた車掌車が、雪のなかにポツリと捨てられたように置かれている。北海道でよく見る転用駅舎である。

付近には生活の気配を感じないが、近所の廃小学校は木彫家の砂澤(すなざわ)ビッキが生前にアトリエを構えた所。現在は作品を展示するミュージアムになっているという。音威子府駅前にあったトーテムポールの作者でもある。

列車は天塩川に沿って走る

線路は天塩川と一心同体のごとく、ぴったりくっ付いて敷かれている。川が蛇行すれば列車も右に左に目まぐるしく曲がる。左は大河、右は断崖。自然の言われるがままに北上するしかない。なのに、川の流れは相変わらず悠然としたままで、川面には泡沫の一つさえ見えない。ディーゼルカーが右往左往するのを、面白がって眺めているかのようである。

天塩中川で老夫婦が乗ってきて、全乗客は五人になった

中川の細長い街を抜けると、列車は再び天塩川に揺さぶられ始めるが、谷が若干開けてきたので、音威子府村と中川町のサミットのような激しい蛇行はなくなった。北見・天塩の両山地を覆っていた灰色の雲が少しづつ抜け、窓の外に青空が見え始める。鉛色の水面にも、緑と青が入り混じってきた。
「おい、山だ」
老夫婦の夫が言う。女性週刊誌を熟読中の妻より早く、私が反応した。単調な黒い稜線に一つ、三角形の真っ白な美形の山が飛び出している。
「あれ、利尻富士?」
本から目を外した老妻が声を上げた。

雄信内(おのっぷない)という駅を過ぎ、幌延駅に近づく

天塩山地が尽きつつあり、丘陵のようである。次第に左側に原野が広がってきた。列車が曲がることもなくなり、スピードものってきた。ここから幌延まで一気に三駅を通過する。牧草地の向こうには、再び利尻富士が姿を現した。先ほど、中川の外れで見た時より、大きくなっている。赤い牛舎とタワーサイロの向こうに、ゴツゴツした白い山肌が見える。サロベツの風景にしっかり溶け込んでいる。いつも隠れているこの山は、こんなに美しかったのかと思う。

豊富~抜海間の風景

サロベツ観光の中心駅である豊富(とよとみ)を一〇時四一分に出た稚内行は、寥(りょう)とした原野の中を北上していく。雪が薄く、枯れ木や熊笹が地表に顔を出す。厳冬の一歩手前の平原は寂しい。

兜沼(かぶとぬま)、勇知と過ぎると、列車は原野から離れ、日本海へ向かうなだらかな丘陵の中に入った。抜けた所が抜海(ばっかい)駅。反対列車が来るまで、四分の時間があった。

一八年前の夏、私は初めて抜海で下車した。牛が草を食む駅前から、原生花園に向かって一直線の道が伸び、陽炎の先には吸い込まれそうな蒼い海がある。観光地ではない最果ての風景にとりつかれ、季節ごとに訪れた。北海道で最も好きな駅だった。

抜海から終点の稚内へ

交換を終えて抜海を出た列車は、宗谷本線最後の丘を上っていく。自然のままに水が流れるクトネベツ川を越え、枯れた針葉樹林の中を三分ほど走ると、視界が開けた。エメラルドグリーンの日本海に置物のような利尻岳が浮かぶ。絵葉書のごとく出来過ぎている。「利尻富士」と書かれた塔婆めいた案内板が突き刺さり、まるで箱庭の世界である。

「ツギハ、ミナミワッカナイ、オデグチハミギガワ、ゼンブノドアーガヒラキマス、ウンチンセイリケンハ、エキカカリインニオワタシクダサイ」
これまで散々聴かされた自動放送の女性の声が流れ、列車は南稚内へ着く。残る乗客は三人。市街地を四分走った列車は、一一時三〇分に終点の稚内に到着した。前後二つのドアが開いて、旭川から共に五時間半乗り続けた二人の男とともに降りた。
東京から一七〇〇キロ超、三日間の度は終わった。

(宗谷本線編 おわり)

宗谷本線(その1)旭川→名寄→音威子府間の風景

(出典:2009年「週末鉄道紀行」)